人の死がもたらすもの
結局、人の死なんてものは何も変えないし何も変わらないんだとつい最近まで思っていたんだけれども、どうもそうでは無い
こういう話をするとやっぱり俺の話に上がるのは音楽家の先輩であり友人だった人と、祖父二人の死
三人とも、かけがえのない、心より大好きな人だ。今も、それは変わらない
祖父はろうそくのろうが底を尽きていくような最期だったが、音楽家の先輩はろうも残っているのに灯が当然、パッと消えてしまったかのような最期だった
前から、「自分から消える」とは言っていたものの、ろうそくのろうがたくさん残っているろうそくを見て、風が吹かない限り消えないだろうと思ってしまうでしょ?俺もそうだった
果たしてそこに風が吹いたのか吹かなかったのかは分からないけれども
三人の死が俺にもたらしたものは無常観と老化だ
三人が死んでしまってから、考え事が多くなった。
このブログなんでまさにそうだ。三年前の俺だったらこんな事は絶対に書かないし書けない。
人生のサイクルワークである睡眠、労働...etcに考え事が加わったおかげで、目の前で起きている事のその先や、見えないものを考える様になった
その考え事の先がポジティヴかネガティヴかはその日のコンディションに依るんだけどね
そんな風にしていたらある日突然、業界の大先輩に「21か!えらくおっさんくさいよな笑」って言われてドキッとしてしまった。
考え事をすると、体感時間が以前よりも長くなるんだよね
様々な出来事を、自分なりに紐解いて、ゆっくりと答えを出していたらいつのまにか老けていた
俺は行動をする人間だけど、考えかたには「どうせ」がついてる
「どうせやりゃなんとかなるだろ」
「どうせが俺がやらなくてもいいんだろうけどやってやろ」
「どうせこんな事しても役に立たないだろうけど、役に立ったらいいからやってやろ」
みたいな。
人の死をいっぺんに体感して生まれた無常観が思わぬプラスな考え方をさせてくれている。
どうせどんなに仲良くしてなって会えなくなるし、死ぬし、音楽は鳴り終わるし。
だから、この終りのある時間軸の中で交差している時間がとても貴重だと思えるんだ
つまり、死について考えられる事は生者の特権だ。
つまらないけどたまに楽しい人生の中で俺たちは目の前のこと以外をどれだけ考えるか
時間はありそうでそんなにない
急がず焦って、たくさん何かをしようよ
ただ、こう言う事を考える余裕を持つためには一定のお金が必要なので最低限のお金は持っておこうね。
こんなおっさんくさい事言ってるんだから本当に昔より老けたな、と思うよ
大地の40歳が楽しみだと言ってくれた人がいたけど、俺も同感だわ